シャトー カロン セギュール 2017
メドック格付中最北端に位置する歴史の古いシャトー。所有者マダム ガスクトンは、10年程前に親愛なる夫を亡くし、たった1人でシャトーを支えてきました。男性が多いボルドー ビジネスの中で大きな存在感を有しています。ワインのスタイルは彼女が引き継いでから大きく変わったと言われます。1994年以前、ご主人が醸造をしていた頃は、樽熟成期間を長くし、どちらかというとマッスルな、抽出の多い力強いスタイル。しかし、彼女が造るようになってからは、抽出を適度に抑えた、果実味主体の味わいに変わってきているよう。近年のヴィンテージでは、『第一級格付けシャトーと、肩を並べるほどの潜在能力を持ち合わせたワイン!』とますます評価を上げています。
ラベルに描かれたハートマーク
『シャトー カロン セギュール』のラベルに描かれたハートマークには大変ロマンチックなストーリーがあります。お金持ちのセギュール侯爵は5大シャトーである「ラフィット ロートシルト」や「ラトゥール」を所有しつつも、この3級の『カロン セギュール』が大好きで、“われラフィットを造りしが、我が心カロンにあり。”と言ったそうです。そんなセギュール侯爵のカロン セギュールを愛する気持ちがハート型のラベルとなりました。最愛の方への贈り物に。
シャトー カロン セギュール
講談社「BORDEAUX ボルドー 第4版」ロバート パーカーJr.著より抜粋
サン=テステフのコミューンの最北区域にある砂礫と鉄分の多い石灰岩が底土のカロン・セギュールは、格付けシャトーとしては最北端である。近隣のモンローズと同様にオーナーはシャトーに住み込んでいる。無意味なことは許せず、くだらない者は相手にしないカプベルン・ガスクトン夫人がその人である。カロン・セギュールの白いシャトーは、よく目立つ。2つの塔には珍しい丸屋根がついており、シャトーの周囲には石壁がめぐらされている。この「クロ」は、ブルゴーニュではよく見かけるがボルドーでは珍しい。
カロン=セギュールの歴史はローマ時代にさかのぼる。この頃、サン=テステフのコミューンは、「カロネス」として知られていた。ワインを生産するシャトーとしての名声は、18世紀、セギュール侯爵が発したと言われる有名な言葉によってますます高まったことは間違いない。彼は、「われラフィットやラトゥールをつくりしが、わが心カロンにあり」と言って友人を驚かせたのである。カロンに対する彼の思い入れは、カロンのラベルにあるハートの中に今も生き続けている(バレンタインデーのプレゼントにつってつけのラベルだ)。
20世紀の大半において、カロン=セギュールは万事うまく行っていたし、どこから見ても一級シャトーに匹敵するほどの心動かされるワインを生産することも多かった。1929年、1928年、1926年には格別の成果を上げたし。陰鬱な1930年代にあっても、1934年は上等だった。1940年代後半から1950年代初めにかけてのボルドーで、カロン=セギュールが1953年、1949年、1948年、1947年、1945年に享受したとしても魅力的な成功に匹敵する成果をあげたシャトーはほとんどない。もっとも1954年以降、カロン=セギュールが本当に深遠なワインをつくったのは1982年のことである。その間も悪くはなかったのだが、1960年代、1970年代は最高の年のものでさえ、かすかに酸化しており、果実味がくたびれていた。時には、カビ臭い古樽の風味があったり、渋いタンニンが多すぎたりするものもあった。ボルドーの消息通の間では、セラー内でのワインの育て方、いわゆるエルバージュが原因ではないかと考えられていた。また、瓶詰めが遅すぎたとか、澱引きや古い樽の清掃が、投げやりとは言わないまでも、丁寧でないことが多かったのだろうとも考えられていた。
1982年以降、カロン=セギュールは本来の姿を取り戻し、1990年年、1989年、1988年には上等なワインを、2000年、1996年、1995年にはけたはずれのワインをつくり出した。この歴史ある偉大なシャトーは1970年代にその方向性を見失ったかに見えたが、今では力強く立ち直り、そのワインは、スタイルこそ大きく異なるが、コス・デストゥルネルやモンローズに迫るほどのものになっている。ガクストン夫人なら(存命中であれば、彼女の夫君も)こう言うだろう。サン=テステフのすべてのシャトーのうち、カロン=セギュールが最も忠実に、伝統的なスタイルの、長命な、成長し花開くまでの時間のかかるワインをつくり続けていると。この点では異論はない。伝統を重んじる人々には名高い1855年の格付けでは(地理的な意味合いで)最後に名があげられた、この立地のよい歴史的に重要なシャトーの近年の作品を、検討してみるようおすすめする。